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離人体験について [離人体験]


皆さん、こんにちは。

最近はシロアリに関心がない時期なので、思いっきり個人的な体験でも書いて
お茶を濁そうかな~なんて思っています。

で、私の奇妙な体験を書いてみます。といってもおそらく前回と同様にわけの
わからない内容に、そして、とてもつまらない内容になると思いますので最初から
お断りしておきます。どうぞ途中から放棄していただいても結構です。
なんて無責任ですね。だって書いている本人でさえ、あれは一体何だったのか?
未だにわからないからです。

一体これは私だけの特殊な体験なのか?それとも決して珍しくもなんともない
それなのか、私には判断できないのです。ただ私は非常にこの体験にこだわって
います。もしかしたらあれは世界の実相の隙間が垣間見えた瞬間だったのか?
(おおげさー!)それとも単に脳内物質の変化に帰結するものなのか?
私が決して文学的哲学的人間でないことは稚拙な文でおわかりだと思います 。
だから難しい話ではないんですが・・・。

それは私が中学1年生の頃、突然始まりました。
当時暮らしていた私の家族は父と母と妹の4人でした。姉は東京就職して家には
いませんでした。因みに私は上には姉、下には妹という3人兄弟の長男です。

で、ある夜の夕食風景を想像してみてください。丸いちゃぶ台で4人家族が飯を
食っている風景。ちょうど映画「3丁目の夕日」みたいな雰囲気。
特に楽しい会話をしていたわけでもなく静かな淡々とした夕食風景です。
私の左手にはご飯を盛った茶碗が・・右手は箸を持っています。当たり前ですね。
なぜこんなことをわざわざ書くのかというと訳があります。

そのとき、いきなり私にとって世界が一変しました!
なんの前触れもなく突然にです。その直前、家族との会話で言い争ったとかいう
ことは全くありません。どちらかというと沈黙の食事の時間に突然世界の様相が
変わってしまったのです。私の周りの風景・世界がまったく変わってしまいました。
私はただおろおろするばかりでした。一体なにが起こったんだ!・・・
と右手を動かして見ました。動きます。左の茶碗を持った手は・・・。動きます。

私は突然世界と切れてしまいました。一瞬で父や母や妹がまるで血の通わない
他人になってしまいました。確認しようと・・・かろうじて、ああ、この左にいる人は
私の父で名前は・・・。向かいにいるのは妹で名前は・・。そして右にいるのは私の
母だ。名前は・・・。

何を一体書いているんだと思われると思います。
つまり、家族なのに「心情的なつながり」がものの見事にプツンっと「切れて」
しまったのです。そして自分の「心」と「肉体」も見事に切れてしまう。
自分の意思ではありません。だから私は手を動かしてみたわけです。
鉄腕アトムもはじめて作られたときこんな感じで両手両足が動くのを確認したのかも
・・・なんてアホな想像をしてしまいますが、とにかく自分の肉体と心が切断されて
しまいました。

このシーンを外部からみても何も変化は起きてません。変わったのは私なのです。
私の内部と世界の関係が変わってしまった、とかいいようがないのです。
感じとしてはちょうど写真のネガフイルムの世界。白黒が逆転して世界が見えるような
感じです。
といっても実際にそのように見えるわけではありません。(たとえば眩暈を起こして
寝そべったとき天井の木目がぐるぐる廻ったように感じますが、注意してみると木目は
廻っていません。廻っていないのに廻っていると感じるような目視というか、そんな感じ
です。)見える世界は変わっていないのに「感じ方」が完璧に変わってしまう。

一番困ったのは中学生といえば最も多感で悩み多き時代です。
人生とか友情とかいろんなことに日々悩む時代でもあります。で、いろんな人の話や
経験談を聞いたりあるいは本を読んでは自我をつくっていくわけですが・・・
それらの苦労して集めた自我がものの見事にガラガラと音を崩れてゆく・・・

たとえば前夜、大感動して読んだ本があるとします。
よし!この本は自分の一生の座右の書にしよう!なんて決めた本があったとします。
ところがそんな本が全く無価値になってしまうのです。理由もなく突然に。
もうそんな本、鼻紙の価値さえなくなってしまいます。
理由がないのです。いきなり無価値になってしまう。

たとえば道をあるいていたらマンホールの蓋が開いているのに気づかず、いきなり
ストンと落ちてしまう感じです。まったく予期せぬ瞬間に。不定期にそうなってしまうのです。

ここまで読んでいただいた皆さん、おお、とうとう狂ってきたか!とお思いかも
しれませんね。でもこれは例えでも誇張した表現でもありません。
事実を忠実に書いているだけです。

もうこんなばかげた超個人的なこと書くのやめようかなと思います。
でも、もしこれと似たような経験をされた方がいてコメントいただければとの思いで、
もう少しつづけますね。

とにかく自分の中にいくら価値的な何かを積み上げても、その時間帯になると
無価値になってしまいます。時間帯と書きましたが大体それは2~3時間で元に
戻るからです。表面的にはなんにも変わりませんから他人はまったく気づきません。
普通に世間一般の生活も反応もできます。

鬱とは違うようです。鬱はまだ私には「意味的」な気がします。
私のは、よーするに世界から「意味的」ないっさいの価値が消えてしまうだけです
感情も無感覚・無感動でロボットみたい?
といってもロボットに気持ちがあるのかわかりませんが。

その時間帯なら、たとえば自分のそばにホラー映画もどきの血だらけの死体が
あっても平気で飯が食えると思います。これは確信できます。
えー!と思われるかもしれませんが心配しないでください、殺人衝動などは起こり
ませんから。というより殺人というもっとも「意味的」なことそのものが無価値になって
しまうのですから。衝動などという「感情的」な気分とはもっとも遠い気分というか、
とにかく「感情」が消えてしまうわけです。

で、どーしたらいいんだろうと悩みました。
そんなこんなでいろいろ精神医学の本を漁っては似たような症例を探しでみました。
精神分裂症から生還した少女の書いた本とか、フロイト、ユングからウイリアム・
ジェイムスの「宗教的経験の諸相」とか、あげくは澁澤龍彦やらあっちへふらふら
こっちへふらふらと・・・・。

でも、似たような症例はとうとう発見できませんでした。精神分裂症とは微妙に違う
のです。あるときカミユとサルトルの小説で酷似したシーンを発見しました。
そしてシュールリアルズムの絵にも。特にサルトルの実存哲学には共感しました。
例の主人公がマロニエだったかの公園で体験するシーンはかなり似ています。
精神病院にも電話だけしたことがありますが結局行きませんでした。
たぶん自分がほんとの狂人のレッテルを貼られてしまいそうで怖かったのだと思い
ます。

私達は世界について一体何を知っているというのでしょう。
ただ分類し、整理し、意味というレッテルを貼って「わかったような気分」になっている
だけではないでしょうか?
たとえば空に鳩が飛んでいるのを目にしたとします。私達はそれを見て不思議とも
なんともふつうは思いません。「あの空に飛んでいるのは鳩だ」で終わりです。
でもこれはとてもとても不思議なことです。

試しに鳩から全ての言葉・名詞を剥ぎ取ってみると・・・ことばでしか表現できない
ので止むを得ないのですが・・・空中に羽根の付いたブヨブヨした肉の固まりが
浮かんでいる・・・しかもその存在の理由はまったくわからない・・・奇怪な現象
・・とも言えませんか。ダリの絵の世界のように。

あるいはいきなり政治的に飛躍しますが、右翼であろうと左翼であろうと私にとって
はどーでもいいことです。どっちにしろ信奉している人はそこに「意味を見出して」
いるのでしょう。でもその意味がもし剥ぎ取られたら・・・。無価値です。
ついでに言えば私はコミュニケーションを信じてはいません。それは不可能です。

だから、私は他人の経験談を聞かされても、滅多に「その気持ちわかるよ」とは
軽々しく言わないようにしています。だって、わかっているのは「他人の経験」を通して
それに類似した「自分の経験」だけだからです。「他人の経験そのもの」がわかって
いるわけではないですよね。

といっても、どうやら人間は「意味というチューインガムをいつもクチャクチャ噛んで
いないと」安心できない生き物らしいですからね。
それに、何なんだよー!さんざん「意味的なこと」を今まで書いたくせによー!って
言われそう。脱線しました。こんなことどーでもいいですね。

でも、圧倒的だったのは親友が貸してくれた一冊の本(筑摩書房刊「ニヒリズム」
全集の一冊)でした。その親友は私の話を聞いたらすぐに書庫から「これを読んでみな、そのなかの太宰治のトカトントンというやつ」と言って貸してくれました。

一読、ビックリしました。その短編小説はほとんど私の経験そのものでした。
その短編は遠くで聴こえる大工さんのトンカチを打つ音が契機として使われていますが
内容はそっくりでした。きっと太宰治も同じ経験をしたのに違いありません。
で、一体この奇妙な経験について太宰はどう言っているのか興味津々で最後まで
読み進めたら、なんのことはない「晴天の霹靂だ」とかなんとかでお茶を濁しています。

ガッカリしました。というより太宰にとっても答えはわからないということなのでしょう。
一体あれに対抗できるものはあるのか?アレはなんなのか?今度あの状態になったら
大好きなJAZZを聞いてみようなんて思っていますが、そんなときは聞く気さえまったく
起きないでしょうね。

私は不思議な話や怪奇な話、幽霊の話なんかに興味がありますが、実は怖くとも
なんともありません。もし私がほんとに怖いなあ~と思う経験があるとすれば、この
離人体験かドッペルゲンガーかもね、なんて思っています。ゲーテだったかは経験してるそうですが。だって「自分」と「出会う」なんてもうこれ以上の怖い経験はないと密かに思っています。

昔ある人にこの離人経験を話したら、「それはほとんどの人が経験していることで
珍しくもないと思うよ、ただ鋭く感じるか鈍く感じるかの違いだと思うな」と言われました。
そうなのかなあ?だったらちょっとだけ安心なんだけどななんて思いましたが。
でも、これはある意味、私の根幹に関わっている未だ謎のテーマです。
一生わからないかもしれません。大体、無意味なるものを意味でとらえようとすること
自体がパラドックスなのかもしれないですね。

ほんとは恥ずかしいので途中で書くのを止めようと思いましたが、もしや似たような
経験をされた方がいたら是非コメントいただければと、一縷の望みを持って思って
書いてみました。といっても、大抵の人には相手にもされないでしょうが。
おやおや、とうとう狂ったかと思われても仕方ない内容ですよね。
更に読者数が激減するでしょうね。後で後悔するかもしれません。
(なんだか誰も読んでくれないほうがいいかなあ~なんて弱気になってきました。
自分ながら矛盾した気分です。) 期待しないで待っています。

最後に、おそらく皆さんにとってはつまらない個人的な話を長々と書いてしまいました。
こんな話を果たしてブログに書いてもいいんだろうかと迷いましたが「旅の恥は掻き
捨て」ならぬ「ブログの恥も書き捨て」ということで思い切って書きました。
(こういうときはもともと読者数が少なくて良かったなあ、なんて思います。
もうアホですね。)
 
それでも、このバカな文章に最後までつきあっていただいた皆さんには心から
ほんとに感謝いたします。ほんとに呆れた内容でごめんなさい。
それでは皆さん、ごきげんよう。


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